ヨコトリ2017を振り返りながら②
ヨコトリ2017で特に印象に残った作品の好き勝手な感想と、考えたこと。
①の続きですが、どこからでも読めるので、とりあえずここから読んでくんなせえ。
宇治野宗輝『プライウッド新地』
美術作品の輸送に用いる木箱をビル群に見立てたという空間。
水の入ったミキサーが断続的に動作してリズムを刻み始めたかと思えば、改造された家電や工具やエレキギターなどが次々に動き出して音楽を奏でる。
空間の中央ではワイパーの腕を持ったロボットが、スポットライトを浴びて軽快に踊る。
エンターテイメントとして面白かった。
会場である赤レンガ倉庫1号館のホールはライブに使われることもあるので、場所柄にもぴったりだ。
ラグナル・キャルタンソン『ザ・ビジターズ』
照明が消え、点在するスクリーンだけが光る広い暗室。
9つのスクリーンにはそれぞれ奏者が映っており、彼らの奏でる音は合わさってひとつの音楽となり室内に響く。
バスタブに浸かりながらギター弾いてるおっさん好き。自由かよ。
奏者たちはヘッドホンで他のパートの音を聞きながら演奏しているようだ。
一人一人は孤独だとも言えるし、チームを組んだ仲間と趣向の効いたセッションを楽しんでいるとも言える。まさに接続性と孤独。
YouTubeやSoundCloudやニコニコ動画で人気を得ているトラックメイカー達のことが頭に浮かぶ。
では彼らはぼっちか? リア充か?(きっと、どちらでもあるのだろう)
ドン・ユアン(董媛)『おばあちゃんの家』
区画整理のために今年解体されてしまうという、作者の祖母の家をモチーフとした絵画群。
実際の家のように立体的に組み立てられた書き割り。
家の中に置かれた様々なモノがすべて1つずつ絵画として描かれ、室内に飾られている。
3次元と2次元が混ざり合った空間の異質さに引き込まれた。
家財道具も、料理や果物も、まるでゲーム内でアイテムを示すアイコンのよう。
興味深いことに、こうして写真という2次元のフォーマットを通して見ると、次元が統一されたことで案外普通の絵画っぽく見える。
つまり、これもその場に立って体験しなければ味わえない作品だということ。
個々人にとっては、モノの一つ一つに愛着や思い出がある家という空間。
しかし、都市を設計し区画整理を執行する権力の側にとっては、一軒の民家、ましてや家の中のモノなど、ゲーム内の消費アイテム程度に軽い存在でしかないのだろう。
とは言え、それが批判すべきことかどうかは別問題。この作品にまず表れていることは「認識のギャップ」だと思う。
画面では伝わらないもの
近頃Web制作に関する本を読むことが多いので、鑑賞中はしばしば「Webサイトやアプリの画面では伝えられないものとは、表現のために物体を作る必然性とは何か?」という問いかけが頭に浮かんでいた。
ヨコトリの作品群を鑑賞して、ひとまず読み取った回答。↓
今日の頭の中①
— もちやじん (@kamiu) 2017年10月14日
Webでは表現できないこと、実体の作品を作ってこそ起こせることとは?
→視線や行動を誘導する、触覚など視覚以外の情報を伝える、メディアでは表現が困難な表現(でこぼこ・金銀色・ほぼ真っ暗闇)、作品世界に踏み入れる体験をさせる(大きく広く作る・部屋を丸ごと作る)
また、国語辞典の「インスタレーション」の項ではこう説明されている。
インスタレーション【installation】
〔美〕(展示・装置の意)特定の空間にさまざまな物体を配置してある状況を設定し、その空間全体を作品とする手法。また、その作品。1960年代末以後一般化した。
「空間全体を作品とする」。これが一つの要なのだろう。
体験をプロデュースする、と言い換えると、アートの枠を超えてあらゆるものづくりに通じる話にもなってくる。
その場に立って、五感や感受性を用いて体験しなければ知り得ないことがある。
リアル空間の中にモノや場所を作って初めて伝えられることがある。
パソコンやスマホの画面は、多くの場合、それらを知りアクセスするための入口や窓口に過ぎない。画面に向かう時間がいくら長くなっても、そのことは忘れずにいたい。
近年注目されているVRやARは、仮想ながらも空間作品を作ることができる、ハイブリッドな媒体だと言えそう。
近い将来、VR空間を作るハードルがもっと下がったら、アートの世界にも新たな潮流が生まれるのだろう。
前回の記事はこちら。 mochicome.hatenadiary.jp
※写真の掲載については、館内掲示に従いCC BY-ND 2.1 JPに則って作家名と個展タイトルを文中に記しています。